ぼく、キャルパカだよ
ぼくのなまえはキャルパカ。
なんでキャルパカかって?
アルパカみたいなんだけど、らくだのキャメルいろをしているからキャルパカなんだ。
ぼくはみんなによろこんでもらうのがだいすき。
だからぼくはいつも、みんなをわらわせているんだ。
ときどき、とんだりはねたりしてみたり、おみずあそびをして、
みんなにおみずがかかってしまっても、
みんなよろこんでくれるんだ。
でも、ときどきは、ぼくはじぶんのしたいことだけをしたくなるときもあるんだ。
とってもねむくて、みんながいるのに、どうしてもねむくて、ねてしまうこともあるの。
ほんとうは、みんなをよろこばせたいけれども、でも、どうしてもねむくてしかたがないの。
だから、ぐっすりとねてしまうのだけれど、
でも、みんなはぼくがぐっすりねているところをみるのも
すきだっていってくれるみたいなんだ。
だからぼくはあんしんしてねむれるようになったんだよ。
ぼくはぐっすりねむると、またげんきになって、またとんだりはねたり、
おみずあそびができるようになるんだ。
ぼくはたべることもだいすき。だいこうぶつは、とうもろこし。
みんながみているのに、おなかがすいてしまって、とうもろこしがあったら、
ぼくはがまんできないんだ。
だってとうもろこしはだいすきなんだもん。
だから、ぼくはおなかがすいたらとうもろこしをいっぱいたべてしまうんだ。
でも、ぼくがたべているところも、みんなはにこにこしてみているんだ。
みんなもとうもろこしがだいすきなのかな。
ぼくはとってもハッピーなんだ。
ぼくは、ハッピーキャルパカだよ。
なんでキャルパカかって?
アルパカみたいなんだけど、らくだのキャメルいろをしているからキャルパカなんだ。
ぼくはみんなによろこんでもらうのがだいすき。
だからぼくはいつも、みんなをわらわせているんだ。
ときどき、とんだりはねたりしてみたり、おみずあそびをして、
みんなにおみずがかかってしまっても、
みんなよろこんでくれるんだ。
でも、ときどきは、ぼくはじぶんのしたいことだけをしたくなるときもあるんだ。
とってもねむくて、みんながいるのに、どうしてもねむくて、ねてしまうこともあるの。
ほんとうは、みんなをよろこばせたいけれども、でも、どうしてもねむくてしかたがないの。
だから、ぐっすりとねてしまうのだけれど、
でも、みんなはぼくがぐっすりねているところをみるのも
すきだっていってくれるみたいなんだ。
だからぼくはあんしんしてねむれるようになったんだよ。
ぼくはぐっすりねむると、またげんきになって、またとんだりはねたり、
おみずあそびができるようになるんだ。
ぼくはたべることもだいすき。だいこうぶつは、とうもろこし。
みんながみているのに、おなかがすいてしまって、とうもろこしがあったら、
ぼくはがまんできないんだ。
だってとうもろこしはだいすきなんだもん。
だから、ぼくはおなかがすいたらとうもろこしをいっぱいたべてしまうんだ。
でも、ぼくがたべているところも、みんなはにこにこしてみているんだ。
みんなもとうもろこしがだいすきなのかな。
ぼくはとってもハッピーなんだ。
ぼくは、ハッピーキャルパカだよ。
# by lasflores | 2011-07-12 10:47
Robert Doisneau
ロベール・ドワノーの写真といえば、「市役所前のキス」が代表作であるように思います。これは戦後の混乱の続くパリ市民に、一抹の希望を与えたと言われるもので、2005年のオークションで、15万5千ユーロ(約2千万円)で売れ、戦後のカメラマンの中でも最高の価値を付されたと言われます。
モノクロの、ノスタルジックな写真の中に、せわしく先を急ぐ人々の姿が映し出され、混沌としたその時代に、何に向かって先を急いでいるのかも分からないような人々の表情があり、ロベール・ドワノーが捉えたその瞬間は、すべてに答えを出したかのようなものであったのかもしれません。
1950年に撮影されているその写真のモデルは、実は、ふたりともクール・シモンという演劇学校の生徒だったことが後に判明して、それは自然発生的な場面ではなく、「やらせ」ではないか、という説がそれからまかり通るようになったようです。
でも、それがフィクションであっても、ノンフィクションであっても、それはどうでもいいような気がするのです。
迷い、絶望、心の渇き、そこから救い出してくれるものが何であるのか、この写真の中から視覚を通じて心に届き、それを否定できるものは、その時代でも、いつの時代でも、ないのではないかと、飽きずにまた件の写真から目が離せなくなるようです。
モノクロの、ノスタルジックな写真の中に、せわしく先を急ぐ人々の姿が映し出され、混沌としたその時代に、何に向かって先を急いでいるのかも分からないような人々の表情があり、ロベール・ドワノーが捉えたその瞬間は、すべてに答えを出したかのようなものであったのかもしれません。
1950年に撮影されているその写真のモデルは、実は、ふたりともクール・シモンという演劇学校の生徒だったことが後に判明して、それは自然発生的な場面ではなく、「やらせ」ではないか、という説がそれからまかり通るようになったようです。
でも、それがフィクションであっても、ノンフィクションであっても、それはどうでもいいような気がするのです。
迷い、絶望、心の渇き、そこから救い出してくれるものが何であるのか、この写真の中から視覚を通じて心に届き、それを否定できるものは、その時代でも、いつの時代でも、ないのではないかと、飽きずにまた件の写真から目が離せなくなるようです。
# by lasflores | 2011-07-11 15:02
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